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こういうふうにしか表現できなかっただけ

こんなふうになるとは想像していなかった。この数年間でいろんなひとを失い、大好きだった人たちとの距離が遠くなった。運の悪いことに、彼/彼女たちはいずれも、わたしの人生の重要な節目にわたしを助けてくれた人たちばかりなのだ。体の一部をもがれてしまったように痛い。(個人的に、大切な人と臓器は似ていると思う。2年前がんで手術をしたときにふとそう感じた)


こんな状態で今まで通りに何事もなかったかのように歩いていけと神様が言うのなら、それはちょっと無理難題というものです。こんな片足失って杖も壊れたみたいな状態で歩けってんならちょっと神様、本気で仰せなんすか?正気?しんげっちゃんもう倒れこむ寸前よ、THE・瀕死状態よ?って思う。人を失うタイミングは、せめてもう少し間隔を置くとか、心の準備をさせてくれたって良いじゃないですか。


こんなことなら長年の付き合いだった、数年前に距離を置いた唯一の男友達と、なんとか関係性を保っていれば良かった。と、姑息な考えがほんの少し脳裏をよぎる。たぶん、わたしがもう少しうまく立ち回ることができる種類の人間だったら、そういうふうにできたんじゃないかと思う。でも残念ながらわたしはそういう種類の人間ではなかったので、距離を置く以外に良い方法は思いつかなかった。「好き」の種類は人それぞれにあって、「好き」の表現方法や扱い方も人それぞれ違う。結局はそれだけのことなのだ。たぶん今でも連絡を取って弱音を吐けば、男友達は力になってくれると思う。そういう人なのだ。なんでもないみたいな表情で、大きく口を開けて笑ったり、少し大げさに驚いたり、一瞬考え込むような仕草をして見せたりしながらわたしの話に相槌をうち、わたしの気持ちを軽くしてくれるだろう。

それでもわたしは、男友達にこの先連絡を取ることはないと思う。(少なくとも自分からは。時々向こうから近況報告のような連絡は来るが、のらりくらりとかわす。最初からなにもなかったみたいに)

「進月ちゃんは大人だよ、たぶんあなたの選んだことが正しいんだと思う。おれは何歳になっても子供みたいで恥ずかしいな」と男友達は言ったけれど、どこに正解があるのかわたしにはわからない。だって好きには人それぞれ種類があって、「好き」の表現方法や扱い方も人それぞれ違う。わたしは、わたしの持てる最大の方法でそれを表現しただけなのだ。別に正しくあろうとしたわけじゃない。こういうふうにしか表現できなかっただけ。





転職したばかりの頃、同僚から「天気の良い日はね、廊下の窓から富士山がよく見えてきれいなんですよー」と聞かされていて、なかなか見えず「ビルやマンションの隙間に隠れてしまっているのかな」と半ばあきらめかけていたけれど、間も無く入社して半年になる先日、ふと就業間近、気分転換に廊下でストレッチをしながら窓に目線を移すと、夕暮れ時の街にくっきりと富士山が出現していた。冬の東京は乾燥していて空気が澄んでいるので、遠くまでよく見えるようになったのだろう。

いっとう好きな、夕暮れと夜の中間の空の色と、好きな人たちとの思い出が詰まっている富士山を眺めるとまた痛みを感じて涙が出そうになったけれど、それでもその日見た風景は、思わず息を呑む美しさだった。職場に好きな人たちを呼ぶことはできないけれど、きれいな景色を見ると好きな人たちの顔が浮かび、この瞬間を共有したくなる。

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悲しい気持ちの時は、円周率や二進数を眺めると気持ちが和らぐ中年女性
コメント (1)
その生きる道に自分しかいないことは残酷で孤独。手放したものが遠くかすむ。でもたぶんもう一度近付こうとしても、かすんだままなのだと思う。僕はね。人と人は、本当ははじめから遠い。いや、、。それは勘違いであって欲しいんだけど、この世界は残酷なの。(なんだか、「進撃の巨人」みたいになったな」。)。「進撃の進月、みたいな末期のダジャレで〆たいところだけど、立ち止まって、富士山を見たように今の周囲をよく見てね。

ああ。コメの必要もないだろ、と自分に言ってしまいそうな孤独。でも、ここにコメ欄があるのだから!
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