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近いようで遠い人たち、遠いようで近い人たち

「どうすれば良いのかわからないこと/本人に聞きたいけれど聞けないことが少しずつ増えていって、わたしにできることは何かないかなと頭をフル回転させるんだけど、結局好きな人たちにわたしができることは現状ほとんどなくて、現実逃避的に勉強や仕事に打ち込んだから今年は結果的にいろいろ捗った。皮肉だけれど」

親友と食事をしながら積もる話をした。わたしは話すことがあまり上手ではないのだけど、親友といるときはなぜか、話しながら徐々に自分の考えが整理されていくのを感じる。たぶん彼女の話を聞く・質問する能力が高いからだと思う。


周囲にいる、好きな人たちとの争いごとや揉め事はなるべく避けたい。が、当事者同士それぞれの権利主張、考え、正義などがあって、それらはしばしば衝突の種になる。好きな人たちが悩んでいたり、傷ついていたら、わたしになにかできることはないかなと思う。でも、驚くほどわたしにできることは少ない。たぶん、争いごとや揉め事というのは、超えてはいけない一定のラインを超えるとあと戻りや修復はほぼ不可能で、一度始まってしまったものは焼け野原になるまで止まらないものなのだと思う。


「わたしもちょうど、そういう揉め事の渦中に置かれているんだよね」と親友が切り出した。わたしたちはしばしば、(タイミングが良いのか悪いのか)トラブルのタイミングが重なる。

そういうの、本当に消耗するよね。あ、そういう事言っちゃうんだ...ってなるよね。それでもそのトラブルに向き合わなくちゃならないの、ほんとしんどいよね。そんなことをぼやきながら、以前からここ行きたいね、と言っていた、ビュッフェ形式の程よくにぎやかなカフェで、親友とふたり静かに強く頷き合った。

親友がいて良かったなと思う。自分の力ではどうすることもできない暴風雨の中で、それぞれの家の中でなんとか雨風を凌ぎつつ、「なんなのこの天気、どうすりゃいいの」と言い合える人がいるのは、その存在だけで心細さや悲しみが柔らぐ。


どこからこうなってしまったのだろうな、と思う。

たぶん、わたしが思っているよりもずっと前から「それ」は始まっていて、問題が表面化したのが最近だった、というだけの事だ。一度始まってしまったものは焼け野原になるまで止まらない。「一定のライン」はとうの昔に超えられていたのだ。彼/彼女たちの痛みも(そうできるならしたいのだけど)わたしが代わりに背負うことはできない。わたしたちは最初から、近いようでとても遠いところにいたのだと思う。


「会えて嬉しかった、また近いうちに会おう」と親友と約束して、わたしたちはお互いの家路についた。近いようで遠い人たち、遠いようで近い人たちのことについて考える。知り合って何十年経っても、親友の知らなかった一面を見つけることがある。きっと親友の方でも、そう感じていることがあるはずだ。上記に挙げた人たちのように、その「一面」が原因で疎遠になる人もいれば、親友のようにその「一面」を知っても変わらない関係性の人もいる。

「仕事で使う機会が増えたので、英語の勉強をもう少ししたいと思っている」と相談すると、親友は勉強の仕方を少し教えてくれた。(彼女は大学で英文科を出ており、独身時代商社で激務をこなしていた)その頃(大学〜社会人2・3年目)どんなふうに過ごしていたかも、今回少し話してくれた。知り合って何十年経っても、知らなかった一面が出てくる。そうやって、お互い少しずつ新しい一面を発見しつつ(願わくば、良い友人関係を保ちながら)年月を重ねていけたら良いなと思う。なんか老夫婦みたいな事言ってしまった。



話しは変わるけれど、先日職場で人づてに「あなたの部署の人たち、あなたが採用されて初出勤するまでの間に、セクハラガイドラインの小冊子を皆で読んでいたよ」と聞き、あとで人気のないところで少し泣いた。

わたしの職場は女性が少ない。部署に限定すると更にいない。お互い、どう接して良いか日々模索している状態(例えるなら、お互い壁の陰から半分くらい顔を出して、そのへんの棒切れでおそるおそるチャンバラしているみたいな状況。なんだそれ)なのだけれど、「わからないから、理解できるように努力」している人の存在は素直に嬉しいし、なんだか救われる。わたしも彼らに対してそういう姿勢でいたいと思う。近いようで遠い人たち、遠いようで近い人たち。





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